二本松藩の戊辰戦争 #2

日記

こんにちは。
すっかりご報告が遅くなってしまいました。



さる2月27日(火)、このブログにて参加を表明しておりました二本松あだたら倫理法人会さん主催のイブニングセミナーの件です(二本松藩の戊辰戦争 #1)。

予定通り参加をしてきまして、講師である岡田峰幸さんのお話を約1時間30分聞いて参りました。
当日の講師・岡田さんは非常に親しみやすい口調で、本来は難しいはずの幕末・明治維新の政治状況を分かりやすく解説して下さいました。
無料で聴講できたことは、本当に幸運としか言いようがありません。

さて、肝心の内容についてです。
岡田さんはまず、戊辰戦争を語る前に『二本松藩』がどのような状況に置かれていたのか…というところからお話を始めて下さいました。
それは徳川側だとか薩摩・長州側だとかそういった話ではなく、二本松藩自体がどのような状態だったのか…ということです。

財政難に喘いでいた二本松藩

ショッキングな小見出しですが…まず初めに言っておきますと、この時代は二本松藩に限らず大半の藩はどこも財政難に陥っていました。
当時の日本は現在とは違い、税収は年貢…つまり米でした。
米だけでなく農作物は、その時の天候の状態により収穫量が左右されることは皆さんもご存知の通りですよね。
今でさえ異常気象に悩まされているというのに技術等に乏しい江戸時代でありますから、ちょっとしたことで左右される米の収穫量は藩や農民の死活問題に直結する由々しき事態でした。

折り悪く、江戸時代は本当に異常気象が多かった時代と言われています。
大きな飢饉も発生しました。

そんな不安定な米というものを税収に据えていたというのですから、今考えると恐ろしい時代です。

そんな財政難の状況なものですから、二本松藩はあまり軍備にお金をかけることができないまま、幕末…明治維新という時代的ターニングポイントを迎えてしまいました(他にも江戸湾の警備等で多額の出費が重なっていたようです)。
旧式の装備では到底薩摩長州に叶うはずもなく。それが勝敗に直結してしまったとのことです。

何故少年隊が出陣することになったのか?

ご存知ない方のためにお話ししておきますと、戊辰の役において二本松藩は少年兵も出陣致しました。
戊辰の役における少年兵といいますと会津若松藩の白虎隊があまりにも有名な存在ですが、実は二本松藩の少年兵達は白虎隊の隊士よりも更に年が若く、一番若い隊士で年齢が12歳だったといわれています。

『そんな年若き子供達を出陣させて、二本松藩って酷い!!』

という厳しいご意見が飛んできそうですが、これには理由がありました。

この時、戊辰戦争の主な舞台は福島県の最南端である白河城でした。
二本松藩も他の東北各藩と同様にこちらに主力を投入して必死に戦っていたのですが、その間、薩長の別動隊は阿武隈川の東(小野、三春、守山等)を迂回して進軍してしまっていたのです。

そのため、薩長が二本松城下に押し寄せようとした時点で、二本松にはまともに戦える兵はほとんど残っておらず、老人や農民、そして先程挙げた少年達などがいるばかりでありました。
そして誤解の無いようにここで触れたいのですが、何も二本松藩は無理やり少年たちを出陣させたわけではありません。
迫りくる故郷の危機を防ぐため、自ら出陣していったのであります。

二本松での戦い

出陣した二本松藩の少年達(以下、二本松少年隊)は、普段は隊長の木村銃太郎に砲術を習っていました。
7月29日、ついに決戦の火ぶたは切って落とされ、二本松少年隊は大壇口という場所に陣を敷き、隊長仕込みの砲術を持って敵を迎え撃ちました。
しかし武器の性能は比較にもならないほど敵方に劣り、二本松少年隊は潰走。
隊長の木村銃太郎は討ち死にし、市内各地で少年達は各々悲劇的な最後を遂げ、やがて二本松城も落城することになります。

日本史が好きという事もあり、大筋としては二本松藩の戊辰の役をある程度理解していた私ではありましたが、やはり改めて歴史研究家の方の話を聞くと胸に迫るものがあります。

今年の大河ドラマは奇しくも主人公が西郷隆盛。
幕末から戊辰の役に至るまで、私達の祖先である奥羽越列藩同盟の面々がどのように薩摩側から描かれるのか、今から楽しみです。

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