『日本最強馬 秘められた血統』/吉澤 譲治
先日シルクレーシングから、昨年の有馬記念馬・ブラストワンピースが今秋の凱旋門賞に挑戦すると発表がなされました。
昨年は日本から、クリンチャーが凱旋門賞に挑戦。
主馬場への適性が期待され、単勝4番人気の支持を集めましたが結果は17着の惨敗。
日本馬による凱旋門賞勝利は、またもやお預けとなってしまいました。
今回要約する本は、日本の競馬ファンが大好きな凱旋門賞をテーマとした『日本最強馬 秘められた血統』。
主役は、近年の日本最強馬として未だ絶大な人気を誇るオルフェーヴルです。
オルフェーヴルは2年連続で凱旋門賞2着。
この本を読めば、日本最強馬・オルフェーヴルの血が日本人の夢やかつて凱旋門賞を制した馬達の血で凝縮されていることが分かります。
第一章 玉砕の山
日本競馬界の世界への挑戦は、1958年のハクチカラからスタート。
当時の経費は約2億円。無謀とも言える米国遠征だったが、この挑戦から鞍上の保田隆芳はモンキー乗りを習得し、日本競馬を大きく変えることへと繋がった。
以降、スピードシンボリ、タケシバオー、メジロムサシらも後に続くが惨敗。
能力以前に遠征ノウハウで大きく遅れを取っており、日本馬は戦う前から既に勝負に負けていた。
第二章 屍を越えて
1972年、『シンボリ』和田共弘氏は、『メジロ』北野豊吉氏らと共同出資により『日本ホースメンクラブ』を結成し、欧州でサラブレッドを購入。
その中の一頭にモガミがおり、シリウスシンボリやメジロラモーヌらを輩出した。
繁殖牝馬として購入したシェリルはメジロアサマを配合され、後にメジロティターンを出産。
メジロマックイーンやオルフェーヴル、ゴールドシップに続く血の礎を築いた。
1981年、日本初の国際レース『ジャパンカップ』創設。
当初は外国馬優勢だったが盛り返し、近年のジャパンカップは日本馬が活躍。
育成や調教、遠征ノウハウが向上し、海外でも結果を出し始めるようになった。
その結晶が、シーキングザパールとタイキシャトルの海外GI勝利(1998年)。
ここから日本馬の海外遠征史は大きく転換。
これまでに築いた死屍累々の山は、決して無駄ではなかった。
第三章 社台グループの隆盛
90年代前半、2歳戦やダート路線は外国産馬の独壇場。
しかしサンデーサイレンス産駒の登場で、日本競馬の状況は一変。
外国産馬を蹴散らし、海外遠征史までも大きく塗り替えることとなった。
サンデーサイレンスの血は、世界で最も可能性を秘めている。
その遺伝力は後継種牡馬にも及び、2011年にはネオユニヴァース産駒のヴィクトワールピサがドバイワールドカップを制した。
悪名的な種牡馬を持つことは、大きな利権を手にすることと同義。
これ以降、サンデーサイレンスを擁する社台グループと他のオーナーブリーダーたちの格差は広がっていく。
第四章 メジロの遺伝子
メジロマックイーンの祖父・メジロアサマは、種牡馬として受胎率が低かった。
しかし、メジロアサマを信じる北野豊吉氏は、所有繁殖牝馬に徹底して種付け。
その中に先述のシェリルがおり、メジロティターンを世に送り出した。
秋の天皇賞を制し、種牡馬となったメジロティターン。
スピード血統が重視される時代だったが、敢えてスタミナ血統のメジロオーロラに種付けし、1987年に産まれたのがメジロマックイーン。
種牡馬となったメジロマックイーンは2006年に死亡したが、その死後に快進撃。
産駒の活躍に加え【ステイゴールド×母父メジロマックイーン】の黄金配合が誕生。
メジロアサマから続く歴史は、ステイゴールド産駒が承継。
第五章 オルフェーヴルの誕生
当初低評価のステイゴールド産駒だったが、ドリームジャーニーやナカヤマフェスタを輩出し、2011年にはオルフェーヴルが三冠馬となった。
父・母・母父の全てが内国産の三冠馬誕生は、日本競馬史上初の快挙。
現在の主流血統には、スタミナと成長力が欠乏している。
ジャパンカップ創設後近年、日本競馬はスピードに重きを置いた配合を繰り返してきたため。
そのような状況だからこそ、【ステイゴールド×母父メジロマックイーン】という配合が特効薬となった。
日本競馬史に功績を残したサラブレッドの血が、オルフェーヴルに凝縮されている。
第六章 凱旋門賞の名馬たち
1863年に始まった『パリ大賞』(芝3,000m)は、欧州で最も権威のあるレースだったが、20世紀に入ると長距離に人気が集まらなくなった。
そこで1920年に芝2,400mの国際レースが設けられ、凱旋門賞となった。
フランスの馬産は、凱旋門賞と共に発展。
第2回・第3回連覇のクサールは種牡馬となり、トウルビヨンを輩出。
トウルビヨンも種牡馬として一時代を築き、日本でも後継のパーソロンらが成功。
メジロアサマやシンボリルドルフ、そしてオルフェーヴルにもその血が受け継がれた。
1949年には凱旋門賞の賞金額がパリ大賞を抜き、以降は多くの登録馬を集めた。
その中には歴史に名を残す馬が数多くおり、リボーやシーバード、ミルリーフらも含まれる。
第七章 凱旋門賞馬の血、日本へ
日本ほど凱旋門賞が好きな国はなく、ここ半世紀の間に優勝馬の1/3近くが日本へ。
バリバリの凱旋門賞馬として日本に入ってきたのは、トピオが初。
10歳で早逝したが、後にミスターシービーの母父として名を残した。
90年代に入ると、凱旋門賞馬第二次輸入ラッシュがスタート。
その内の一頭であるダンシングブレーヴは、マリー病や初年度産駒の不調が原因で1991年に日本へと売却された。
日本へ売却された途端に、欧州でコマンダーインチーフやホワイトマズルが活躍。
日本でも、キョウエイマーチやエリモシック、キングヘイローらが好走。
奥州が見放した血は日本で蘇り、貴重な財産となった。
輸入された凱旋門賞馬で、最も成功した種牡馬はトニービン。
当時急増中だったノーザンダンサー系の牝馬への配合は勿論、サンデーサイレンス系との好相性もあり、父や母父として数々の足跡を残した。
最も話題を集めたのは、1995年輸入のラムタラ。
購入総額は約44億円だったが、産駒の不調により2006年に買い戻された。
これ以降、社台グループと、ラムタラを購入した日高生産者グループの格差は広がることとなる。
第八章 約束の頂
1920年~2011年まで、欧州以外の国で調教を受けた馬が凱旋門賞を勝ったことは一度も無い。
牡馬の場合、3歳馬は4.5キロも負担重量が軽く、このハンデを押し返して連覇を果たしたのはリボーなど5頭のみで、種牡馬や繁殖牝馬として活躍した馬ばかり。
だからこそ、凱旋門賞は日本のホースマンの憧れであり『約束の頂』なのだ。
『欧州で成功する血統』≠『日本で成功する血統』。
今後も凱旋門賞を目指すのならば、日本の馬場も世界仕様が望ましい。
海外で結果を出したのは、日本の高速馬場決め手に欠けた馬達であった。
日本の馬産は、内需で成り立っている。
これ以上の拡大を目指すには海外に目を向けるしかなく、世界のホースマンたちが日本の馬を買いに来る状況を作らなければならない。
だからこそ、日本馬が欧米の大レースを勝つことには大きな意味がある。
冒頭でも触れた通り、今年の凱旋門賞には日本からブラストワンピースが出走を予定しています。
ブラストワンピースの父は、イギリス産のハービンジャー。
血統だけを見ると、欧州の馬場にも適応する可能性は十分に秘めています。
また…オルフェーヴル同様に、ブラストワンピースにも凱旋門賞で活躍をしたリボーやシーバードの他に、本書の著者である吉澤氏が『無限の可能性を秘めている』と述べたサンデーサイレンスの血も入っています。
あと3カ月。
凱旋門賞が大好きな日本の競馬関係者やファン達は、今年もまた大きな期待を胸に当日を迎えることでしょう。
関連
コメント