家康の経営戦略/大村 大次郎
皆さんもご存じのとおり、徳川家康が気付いた江戸幕府は約270年も続きました。
これほどまでに続いた政権というのは世界的に見ても稀で、江戸時代の人々は良くも悪くも『平和』を大いに謳歌しました。
本書の帯にも記載されていますが、江戸幕府の最大の武器は財政力。
その中身は、あの織田信長を遥かに凌駕するものだったとも言われています。
その他にも、敵を倒すための徹底的な実行力や先進的な貨幣制度など長期的な政権を築いたいわゆる『家康イズム』がこの本では紹介されています。
今回の【浅見家の本棚】は、大村 大次郎さんによって書かれた『家康の経営戦略』について触れていきたいと思います。
第1章 なぜ家康には戦国随一の『忍耐力』があったのか?
『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』の句でも知られる徳川家康。
ですが、ただ待つだけでは天下を取ることはできません。
家康は、『忍耐力』の他にも重要な物を持っていました。
『本能寺の変』直後の甲斐侵攻や没落した大名家の家臣登用など、極めて効率的に領土を広げていった。
忍耐強いイメージがあるが、訪れた好機を逃さない判断力も持っていた。
この2つの力が、江戸幕府長期政権の礎を築いた。
第2章 超巨大都市・江戸を建設した不気味な財政力
冒頭で既に述べましたが、江戸幕府の最大の武器は財政力でした。
家康はその潤沢な財政力を背景に江戸建設に着手し、現在の東京の基礎を築いたのです。
江戸が日本の首都になることを見越し、天守閣の建設は一番後回しにして土地の平坦化や水道建設を実施した。
第3章 豊臣家を分断せよ!ライバルの弱体化は迅速に
天下人・豊臣秀吉亡き後、少しずつ家康は自身の天下取りのために動き始めます。
そのためには、依然として最大の勢力を持つ豊臣家の弱体化は必要不可欠な要素でした。
まずは細川忠興ら7人を使って石田三成を襲撃させ、失脚へと追い込んだ。
恩を売ると同時に、豊臣直轄領を削減していった。
第4章 『関ヶ原の戦い』を短時間で終わらせた高等戦略
天下分け目の『関ヶ原の戦い』に際し、家康は様々な計画を練っていました。
短時間で最大限の効果を出すために。
これにより、全国各地の主要な金山や港をも手に入れた。
石田三成(敵主力)を大阪城にはすぐに戻れない程の場所におびき寄せ、かつ野戦に持ち込んで短時間に致命傷を与えるために入念に計画されていた。
第5章 内政も外交も!死ぬ前にやるべきことはすべてやる
石田三成を撃破した後は、自身の政権の体制作りを図った家康。
キーワードは『迅速かつ徹底的に』。
『公家諸法度』により、天皇や朝廷の政治への関与も排除した。
方広寺の鐘の件など、様々な疑いをかけて『大阪の陣』の口実にした。
お家騒動に揺れる本願寺を分裂させて勢力を削いだり、独占的貿易のためにキリスト教を禁止した(オランダが唯一の西洋文明の窓口となった)。
第6章 江戸時代の経済を安定させた家康の貨幣制度とは?
江戸時代は、経済も比較的安定をしていました。
その背景には、家康が進めた貨幣制度が存在していました。
『関ヶ原の戦い』後に毛利家から石見銀山を奪ったことで、貨幣鋳造を幕府が独占できるようにした。
開国後は軍艦購入等の国防に主に財産は使われたが、結果的にはそれが欧米列強からの侵略を防いでくれた形となった。
第7章 『平穏な江戸時代』を築いた徳川幕府の飴と鞭
『島原の乱(1637年)』以降、日本国内では約230年間、太平の世が築かれました。
『平和』な時代を築いたポイントは…程よい『飴と鞭』。
参勤交代や天下普請によって間接的に金を巻き上げ、諸大名による反乱の芽を事前に摘み取っていた。
徳川宗家は7代で途絶えたが、お家騒動が起きなかったのも江戸時代が長く続いた要因の1つである。
同時代の海外諸国と比べて飢饉も少なく、江戸は世界屈指の人口を誇った。
第8章 270年に及ぶ太平の時代を貫いた家康イズム
いわゆる『家康イズム』は、歴代将軍の中でも見事に受け継がれていました。
家康の作ったシステムの踏襲を、基本としていた。
その証拠に幕府は多くの書物を発行し、後世に残してくれた。
1600年頃から、家康は出版事業にも着手していた。
『徳川幕府』という1つの会社の収益を安定させ(金山の所有)、お家騒動を未然に防ぎ(御三家制度)、入念な準備によって歴代のライバル企業を渡り合っていくその姿は、正に経営者そのもの。
忍耐力だけでは決して成しえることができなかった徳川家康の功績は、現代を生きる私達にも多くのことを教えてくれることでしょう。