誰も書かなかった武豊 決断(島田 明弘)

浅見家の本棚
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誰も書かなかった武豊 決断/島田 明弘

日本競馬界の悲願は、ヨーロッパの伝統レース『凱旋門賞』の制覇。
今年も日本を代表するトップホース(ブラストワンピース、フィエールマン、キセキ)が同レースを目指して目下調整を進めています。



そんな中…長らく日本競馬を引っ張ってきた(現在進行形ですけど)武豊騎手が、今年の英ダービー4着馬ブルーム(エイダン・オブライエン厩舎)で凱旋門賞に挑戦することが先日発表されました。

今年の『凱旋門賞』は日本馬3頭だけではなく武豊騎手にも注目が必要で、例年以上に楽しみなレースになりそうです。

そこで今回のブログは、ライターの島田明弘さんによって書かれた『誰も書かなかった武豊 決断』という本について要約をしていきたいと思います。

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第1章 宿命

武豊の曽祖父・武彦七は、『日本馬術会の英雄』と謳われた函館大経の愛弟子。
武豊のしなやかな美しい騎乗フォームは、100年以上前に活躍した函館大経から連綿と続いているのかもしれない。
武豊が語る騎手の仕事の面白さの一つ、『運に左右されること』。
1987年のデビュー、『天』や『運』を味方に付けて初年度は69勝。
加賀武見の持つ新人最多勝記録を27年振りに更新した。
デビュー翌年に名馬スーパークリークと出会うが、同馬は骨折で3歳春は休養。
秋、回避馬が急遽出たことで出走できた菊花賞を快勝。
『出走できたことが最大の勝因です。』

第2章 伝説

【シャダイカグラ(89年桜花賞)による、意図的な出遅れ伝説】
不利な大外枠に加え、入れ込むシャダイカグラを見て敢えて出遅れスタート。
先に抜けたホクトビーナスを差し切って、勝利。
『頭を悩ませても状況が改善しない場合は、全てを受け入れる。』
現在全ての騎手が身に付けているエアロフォームだが、これは武豊がアメリカから持ち帰って普及させた。
エアロフォームの勝負服は肌に密着し、空気抵抗を小さくする効果がある。
仕事に関する投資は惜しまず、常に良いものを探し求めている。
武豊は自分が大切にしているものとして…『馬、人、道具』の3つを挙げている。
有馬記念でのオグリキャップの復活は偶然ではない。
実戦に近い芝での追切進言や、好調時の癖を引出しなど最善を尽くして当日に臨んだ。
馬の心を読み、感じ、操るのが武豊流。



第3章 戦略

【武豊のプレッシャー対処術】
『「負けたらどうしよう」ではなく、「勝ったらどうしよう」と考えるようにしている。』(本文84ページより引用)
武豊曰く、キャリアにおけるベストレースはベガで制した93年の桜花賞。
ライバルのヤマヒサローレルを内に封じ込め、距離不足をロングスパートでカバーしての押し切り勝ち。
93年の皐月賞では、ナリタタイシンに騎乗して勝利。
勝負所でビワハヤヒデとウイニングチケットが動いても我慢し、直線勝負。
『もう一度やれと言われても、やれるかどうか分からない。』

第4章 理論

ダービーの勝因・敗因は、当日だけにあるわけではない。
勝つためには、前哨戦やデビュー戦、そこに向けた調教から見据えなければならない。
ダンスインザダークでの敗戦以降、武豊のダービーに向けた構えが変わった。
97年に出会って以降、武豊はスペシャルウィークに英才教育を施していった。
ダービーまでは敗戦や除外等もあったが、結果的にはそれが快勝した『きさらぎ賞』への直行へと繋がり、余裕のあるローテーションとなった。
『ダービーを勝つのは、こういう馬なのかな?』
98年に始まった、サイレンススズカの快進撃。
同馬は他の馬を怖がっているのではなく、自身のスピードを活かすために逃げていることに気付き、現状の走りを磨いていくことにした。
ダービーを連覇したことで、勝ち方のマニュアルが出来た。
『要は、普段からいかにダービーを意識するか。ここで初めて何かを試すようなことがあってはいけない。』(本文139ページより引用)

第5章 野望

2000年以降、更に積極的に海外へ遠征。
騎乗ベースを移す長期的な挑戦であり、01年に関してはフランスのハモンド厩舎の主戦騎手として重賞を勝つなど一定の成果を収めた。
そんな中、02年2月に落馬によって骨盤を骨折。
リハビリを続け、4月には早くも復帰。
骨盤骨折から56日目での重賞制覇を成し遂げた(アンタレスS)。
04年には3度目の『日米英仏GI騎乗』達成と同時に、年間最多勝記録を更新。
『マイナーチェンジを繰り返して今に至った感じかな。アメリカやフランスに騎乗ベースを移した3年間があったから出来たことだと思います。』(本文171ページより引用)

第6章 重圧



ディープインパクトと出会ってからの2年間、武豊はナーバスになっていた。
『何か人の心に訴えるものを持った馬。だから余計にこの馬の走りを見せたいという気持ちが強いし、その反面、すごく神経質になってしまう部分もある。』(本文178ページより引用)
07年、有力オーナー『アドマイヤ』と断絶。
ヴィクトリアマイルで7着に敗れた(アドマイヤキッス)のを最後にオファーは無く、その年のダービーでもアドマイヤオーラから乗り替わりとなった。
08年は不調が長引き、フェブラリーS以降GI勝利から遠ざかっていたが、ウオッカで秋の天皇賞に勝利。
珍しく武豊は会見で『苦しい』と口にし、笑顔も少なかった。

第7章 逆境

10年3月の毎日杯、騎乗したザタイキから落馬し長期離脱。
JRAのGI勝利は、繰り上がりで1着になったジャパンカップ(ローズキングダム)のみで、不完全燃焼の一年だった。
東日本大震災の後、南相馬氏の桜井市長(当時)と対談。
『ぼくたちがすべきことは、まず知って、感じて、伝えることですね。みなさんのポジティブな姿勢に、ぼくの方が勇気づけられました。』(本文221~222ページより引用)
89年から続いていた連続GI勝利記録(23年)が2011年にストップ。
この頃、不調の一因として挙げられていたのが『社台グループとの不仲説』。
しかし、グループトップ3人との関係は以前通りとのこと。
翌12年も不調が続いていたが、11月のアメリカ遠征で
『他の騎手と比べたり競うのではなく、今の自分より上手くなることだけを目指す』を再確認。
それでこそ、武豊。

第8章 決断

この頃の武豊が不調だったのは、騎乗馬の質が低下していたことが原因。
いい馬に乗るのがいい騎手。
2012年、復調の兆しを作ってくれたキズナと出会う。
キズナとは、2012年12月にコンビ結成。
皐月賞を回避し、因縁の毎日杯を勝利したことで嫌なイメージを払拭。
そして2013年5月、キズナでダービー制覇。
『ぼくは、帰ってきました!』
敢えて目標を定めないようにしている武豊だが、唯一明言しているのが『還暦まで現役続行』。
その根底にあるのは、『武豊を取り戻す』『武豊を生き抜く』。
それが、日本を代表する天才ジョッキーの決断である。

本書では、7月に亡くなったディープインパクトの話題に触れた内容も記載されています。
あれだけの馬に乗っている武豊騎手の姿を見ると『楽に大レースを勝っている』ように映りますが、実際はそうではないようでした。



著者の島田さんの言葉を借りると、『ディープインパクトは、スイッチが入ってしまったら一気に燃焼し切ってしまうような危うさを持っていた』とのこと。

ディープインパクトが活躍していた2年間、武豊騎手はそういった見えない重圧と共に毎日を過ごしていたことが窺えます。
興味のある方は、是非購入して読んでみてください。

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