信長はなぜ葬られたのか(安部 龍太郎)

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信長はなぜ葬られたのか/安部 龍太郎

近年、今までとは違う事実が少しずつ明るみになってきた感のある『本能寺の変』。
本書は、歴史小説作家の安部 龍太郎氏が考える『本能寺の変』を解説した内容。
自身の作品である『信長燃ゆ』のベースとなっています。

結果から申しますと、安部さんの考える『本能寺の変』の黒幕は、近衛前久。
明智光秀は単なる実行犯に過ぎない存在でした。
しかし、変後に明智光秀は前久を始めとする一連の計画者達に見捨てられ、主殺しの汚名を着せられた…というものです。

近衛前久って誰よ?

そんな疑問をお持ちの方も少なくはないでしょう。
近衛前久とは、簡単に言ってしまえば信長や秀吉と同じ時代に活躍した御公卿さんです。
しかし、そんじょそこらの御公卿さんとは違って、乗馬や鷹狩りなどを巧みにこなし、多くの武士と親交を築いた傑物です。

近衛前久今回は、そんな『信長はなぜ葬られたのか』を要約していきたいと思います。



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第一章 消えた信長の骨

織田信長・信忠親子の墓は、京都の阿弥陀寺に存在する。
開山清玉上人が、『本能寺の変』の直後に信長の骨を阿弥陀寺に運び出したのがその理由だが、その後秀吉に弾圧され没落してしまった。

秀吉は近衛先久による信長謀殺の計画を利用し、漁夫の利を得るために変が起こるのを待っていた。

その後、秀吉は朝廷が変に関与していたことを材料に脅し、意のままに動かした。
清玉上人はこの事実を知り、秀吉が阿弥陀寺で信長の葬儀を執り行おうとしても拒否をし続けた。

信長の骨の在処は諸説あるが、その1つが阿弥陀寺。
阿弥陀寺のその後の没落を見ると、『本能寺の変』のカギを握る羽柴秀吉の存在が見え隠れする。

第二章 信長の真の敵は誰か?

1575年、近衛前久は信長によって天皇の勘当を解かれ、朝廷に復帰。
以後、互いに互いを利用し合うことで手を組むこととなった。
乗馬や鷹狩りも一流の前久は、たちまち信長の同好の士となった。
信長は庶子としていた五の宮を皇位に付け、太上天皇となり院政を行おうと計画。
事実、安土城跡で清涼殿が発見された。
天皇の権威を重んじてのことではなく、朝廷を支配下に置くという野心が窺える。
信長と前久の蜜月は、武田征伐で終わりを告げる。
原因は、織田家による恵林寺の焼き討ち。
焼け落ちる寺と運命を共にした快川紹喜は、朝廷から国師号を与えられた名僧。
恵林寺の焼き討ちを理由に、前久は吉田兼和、明智光秀、羽柴秀吉らを取り込んで信長謀殺を計画。
しかし、秀吉は前久の計略に加担するフリをして、毛利と和解し中国大返しを実施。
これに仰天した前久は、明智光秀一人に信長殺しの責任を押し付けた。
同時に、計画に加担していた細川藤孝や筒井順慶も光秀を見捨てた。
変後、前久は家康の仲介で秀吉と和を結び、互いの利益のために真相を闇に葬った。
日本の歴史は、勝者の歴史。
第二章の説が正しければ、明智光秀は近衛前久達に梯子を降ろされた形。
信長による院政や恵林寺の一件を許すことのできなかった前久が、変の黒幕として有力となる。



第三章 大航海時代から本能寺の変を考える

織田信長と言う人物像がよく分からない理由は、江戸史観に原因がある。
江戸時代は、戦国時代の真逆の文化(鎖国、身分制度、農本主義など)で成立。
江戸時代に作られた歴史が、我々が教科書で学んだ歴史。
天下統一を目前にした信長にとって、南蛮貿易は硝石や鉛等を得るのに重要なもの。
しかし、1580年にスペインがポルトガルを併合。
南蛮貿易が困難となった。
スペインの視野として信長と対面した宣教師ヴァリニャーノは、明国制服の軍勢を出すよう要求したが、信長はこれを拒否。イエズス会と断交した。
当時国内に多数いたキリシタンからの支持を無くした織田政権は、揺らぎ始めた。
秀吉の明国出兵も、イエズス会に起因する。
キリシタン勢力を掌握した秀吉はスペインとの同盟を背景にすれば明国に勝てると見込んでいたが、失敗。
結果は、ご存知の通り。
この時スペインは、イギリスとの海鮮に敗れ艦隊の大部分を失っており、日本軍を支援することができなかった。
一見、何のつながりもなさそうな『大航海時代』と『本能寺の変』。
しかし、南蛮貿易の重要性やキリシタン勢力の力は信長の想像以上で、イエズス会との断交が終わりの始まりだった。

第四章 戦国大名とキリシタン

黒田官兵衛は、『シメオン』という洗礼名を持ったキリシタンだった。
そんな官兵衛は、関ヶ原の際に独自に兵を募り、九州周辺の西軍型の城を次々に攻略していった。
官兵衛の真の狙いは、九州を制圧し、加藤清正や鍋島らと共に上方に向かって関ヶ原の勝者と決戦をすることだったが、それは叶わぬこととなってしまった。
秀吉の明国出兵は、イエズス会の意に沿ったものだった。
その条件として、イエズス会から大型船を斡旋してもらう予定だったが、反故にされた。
秀吉はその後バテレン追放を発令、これが信長と同じく政権を揺るがすことに繋がる。
南蛮貿易を掌握することは、天下の行方を左右する大きな問題だった。
しかし、南蛮貿易の主役は他ならぬバテレン(イエズス会)。
※鉄砲に必要な硝石や鉛が手に入らない。
秀吉の後を継いだ秀頼は、キリシタンに好意的だった。
大坂の陣で、10万人以上の兵士が彼の下にはせ参じたのは、キリシタンのネットワークと決して無関係ではない。
キリシタンの持つ潜在的な力は、かなりのものだった。
だからこそ黒田官兵衛は、関ヶ原の際に上方に決戦を挑もうとした。
秀吉もまた、信長同様に南蛮との断交で破滅していった。
その最たるものが、明国出兵だった。

以上が、本書『信長はなぜ葬られたのか』の要約です。
本書を読む前でも読んだ後でもいいので、安部さんの作品である『信長燃ゆ』を実際に読んでみると、両者のリンクを実感できることでしょう。



歴史の醍醐味は、様々な可能性を想像できること。
私達が学んだ日本史は、所詮は後世の人達が作ったものに過ぎません。
これから時間が経つにつれて、本当の歴史が明らかになっていくことを切に願うばかりです。

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