すべてが外国文化になる?~『すべてがFになる/森 博嗣』を読んで~

浅見ヨシヒロの週末読書日記

読書日記の再スタート

“読書日記をつけ始めよう”と思い立ったものの、日々の忙しさに追われ中途半端な状態に突入。
時間は無情にも3カ月が経過をしてしまいました。

読書日記を仕切り直すことにし、使用するノートも従来の方眼ノートへ変更。
財政的な理由もあり、安価な大学ノートを使用していこうと一度は決めたつもりだったのですが…自分には方眼ノートの方が使いやすく感じたためです。

2025年2月9日(日)~14日(土)に読んだ本

○すべてがFになる / 森 博嗣(講談社文庫) 読了

今回は、森 博嗣さんの『すべてがFになる』を読了しました。
かなりの有名作品で、この本を読んだことがある方も多いことでしょう。
私も読んだことがあり、今回は俗にいう“再読”というヤツです。

かつて定期的に記録をつけていた“読書メーター”を振り返ってみますと、『すべてがFになる』を再び手に取ったのは実に16年振りの模様。
再読したことに深い意味はなく、ただ単に本棚にあった本書の背表紙に目が留まったことが理由。
16年前というと、私が図書館に勤務していた時代。
当然ながらストーリーは全く覚えていなかったので、楽しみながら読み進めることができました。

ネタバレになってはいけないのでストーリーには直接触れませんが、表面的な感想を述べたいと思います。
読み終えて真っ先に思ったのは、“理系やサイエンスという分野を存分に盛り込んだミステリー作品だなぁ”ということ。

ご安心ください。
理系云々というのはトリック等の話ではなく、作中の随所に登場する科学的且つ現代でも通用しそうな専門用語の数々を指します。

その内の1つが“VR”。
1990年代に刊行された作品であるはずなのに、近年になってようやく普及をし始めた“VR”が何の違和感もなく本作に登場しているのであります。
16年前に読んだ時は何も思わなかった(むしろ忘れていた)のですが、VRが普及し始めた時代に読むと、より一層、森 博嗣さんが時代を先取りしていたことが分かりますね。

以下、VRについて書かれた箇所を引用させて頂きます。

VRカートというのは、ヴァーチャル・リアリティの所期レベルの技術を応用したコミュニケーション・ゲームであった。ネットワークを介して、仮想の街をカートに乗って走り回ることができる。別の部屋にいる他の所員と競走をしたり、一緒にドライブをしたり、雲の上で話をすることもできる。萌絵は、島田文子に勧められ、ほとんど説明を受けないで、そのマシンのコックピットに座ったのだ。【すべてがFになる P281より引用】
すごいですねよね。1990年代に書かれた小説の一節ですよ?
最近書かれた文章と言われても分からないくらいの先見性だと思いました。
森 博嗣さんのこのような先見性の素晴らしさを感じながら、それと同時にミステリーとしてもストーリーを堪能できる。
様々な技術が発達してきた今だからこそ可能な娯楽といえるでしょう。

『すべてがFになる』はシリーズ作品の第1作目。
続きの作品も所有しているので今後も読み進めていきたいと考えています。
皆さんも読んでみてはどうでしょうか。

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すべてが外国文化になる?

以降は単なる日記です。
『すべてがFになる』を読み終えたのは2月14日。
私のような冴えない男性において、この日は悪名高いバレンタインデーというイベントがそこかしこで喧伝されていました。

事前に予想されたことですが、家族(妻や娘達)からチョコレートやお菓子などは特にもらえず、今年の2月14日も何事もなく終了。
月並みな感想を述べると、実に寂しい限り。

ただ…負け惜しみに聞こえてしまうかもしれませんが、私はこうも思うのです。
バレンタインデーにチョコレート受け取ってしまうと、当然ながら3月にお返しをしなければなりません。
面倒くさがりな自分の性格を考えると、バレンタインデーにチョコレートをもらわないことが、実は正解なのかもしれない…と。

更にモテない男性の考えは飛躍をしていきます。
今回のようなバレンタインデーといい、ハロウィンといい、そしてクリスマスといい…外国の文化を利用していかに我々一般市民に消費をさせるか…という企業の狙いが垣間見えてしまう今日この頃。
この狙いに気づいてしまうと、途端に物欲が失せてしまいますね。
やはり自分の欲しい物を各々購入する…というのは一番平和ではないでしょうか?

《終わり》

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