浅見家の本棚

それでも読書をやめない理由 浅見家の本棚 #86

それでも読書をやめない理由/デヴィッド・L・ユーリン

最近レトロゲームですとか、歴史関係の記事ばかりの更新で、このブログの本業のはずの書評がすっかりご無沙汰になっておりました。

皆さんの前にある程度まとまったレベルの書評をお示しするには、それなりの時間と余裕が必要なんですけれども、そのどちらもここ最近の私には不足していたことからこのような事態に陥っており、時間の使い方について反省しなくてはなりませんね。

ふと考えた、『なぜ読書をするのか?』

さて、そんな『忙しい』と愚痴をこぼす日々であっても、本を読むことだけはなぜか出来ていた私。
『なぜ読書をするのか?』
と、ふと原点回帰的な質問を己に投げかけてみてもコレといった答えがパッと出てきません。

この本を買ったのは、もう5年程前になるでしょうか?
タイトルに惹かれて購入したものの他の積読本の中に紛れ、大変失礼な話ですが存在自体を忘れていた時期が長らく続いていたのですが、先述した

『なぜ自分は、こんなにも読書だけは飽きずに続けているのか?』

という疑問がふと頭をよぎった際に、信じてもらえないかもしれませんが背表紙と偶然目が合い、本書は無事に本棚からの脱出を果たしたのです。

『読書をする』ということ

本書はいわゆる『小説』ではありません。
著者であるデヴィッド・L・ユーリン氏の息子さんが、あの『グレートギャツビー』絡みの宿題に悩んでいるところから本書は始まります。

そんな冒頭部分を経て、ふとしたことから息子さんの宿題を手伝うことになるユーリンさん(名前長いから略する…)は、それがきっかけで『読書』に対して改めて色々と考えます。

その思い巡らす一つ一つの考え方が、同じような疑問を抱いた自分にとって腑に落ち、私自身も『読書』の意味を考え直すことができました。

結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ。
そして、わたしたちが物事に向き合わないことを何より望んでいるこの社会において、読書とは没頭することなのだ。
読書はもっとも深いレベルでわたしたちを結びつける。
それは早く終わらせるものではなく、時間をかけるものだ。
それこそが読書の美しさであり、難しさもある。
なぜなら一瞬のうちに情報が手に入るこの文化の中で、読書をするには自分のペースで進むことが求められるからだ。
(本文より引用)

結局皆様に上手く伝えることができないので非常にもどかしいのですが、『読書』という行為自体も非常に価値のあることなのですが、実は大事なのはそこではなくて

『読書をする環境』

こそが我々活字中毒者にとっては貴重なものなのではないかと本書を読み終えて感じました。

忙しい『情報化社会』の中で求める余裕

昨今は、一家に一台のパソコンどころかスマホ・タブレット・ケータイの存在もあってインターネットが一人一人の掌に収まりつつあります。
それを世間では広く『情報化社会』と呼ぶのでしょうけども、ネットから溢れる様々な情報に日々押し流されるような忙しい社会の中において、『読書をする環境』は本書の表現を借りれば『余裕』があってこその貴重な存在です。

ひょっとすると私達は『読書』を楽しんでいるのではなくて、『読書をしている環境』に浸ることで満足感を得ているのではないかという考えに至った次第です。

でも、ここで自分なりに気付いた矛盾点が一つ。

どんなに『仕事が忙しい』という状況下にあっても本を読まない日だけはなかった私。
自分では余裕が無い日々を送っていたつもりなのですが、本を読むということは『余裕がある』ことを意味します。

ではこれまでの自分は『余裕が無いフリをしていた』だけであって、実は余裕があったということになってしまいます。

なんだか哲学的な話になってきてしまいました。
私のような浅はかな頭ではどうやらこの話をまとめられそうにありませんので、今回はこれにて失礼します(逃げた)。

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