浅見家の本棚

北条五代/火坂 雅志、伊東 潤(朝日新聞出版)

北条五代(上・下)/火坂 雅志、伊東 潤(朝日新聞出版)
  

こんにちは、久しぶりに読了本の紹介です。
どんなに忙しくても毎日本を読むようにはしているのですが、このような形でアウトプットするにはかなりの時間を要してしまいます…。

今回紹介するのは、火坂雅志さんと伊東潤さんの共著『北条五代』。
本書を執筆中に志半ばで亡くなった火坂さんの遺志を、伊東さんが引き継ぐ形で発行されたものです。

戦国時代に関東地方の覇者となった後北条氏。
初代・早雲庵宗瑞から、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直まで連綿と続く壮大な歴史を楽しむことができる一冊です。

本書の概要

早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代百年にわたる北条氏の興亡を描いた歴史巨編。
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は今川家の内紛を取りまとめ、やがて伊豆・相模を平定する。
早雲を継いだ第2代・氏綱は武蔵・駿河にまで進出し、北条家の地歩を固めるが……。

早雲の生涯をつらぬいた思想の根幹は、
政敵にはいかなる謀略を用いることも辞さないが、自身に対しては禅僧のごとき厳しい節制を課し、
領国の民にはつねに誠実に接して噓のない政治をおこなうことにある。
遺訓の原文にも、
――上下万民に対し、一言半句も虚言を申すべからず。
とある。

彼が理想としたのは「祿壽應穏」、すなわち領民の財も命も穏やかであるべしという思想である。
数ある戦国大名のなかで、これほど民政に心を砕き、民に慕われた男もあるまい。
その意味で、早雲は異色の武将といっていい。
(本文「第一部」より)



『北条』への改姓が、関東制覇への第一歩

私は常々、二代目・氏綱を北条家の影のMVPと思っていました。
後北条氏といえば初代・早雲庵宗瑞や三代目・北条氏康がメジャーな存在として知られていますが、本書を読んでいきますと、両者の間を繋いだ二代目・氏綱の存在が浮かび上がってきます。

初代・早雲庵宗瑞の元々の名前は、伊勢新九郎盛時。
その後を継いだ当時の伊勢氏綱がまず実施したのは、関東の守旧勢力から『他国之兇徒』と蔑まれていたことへの対処でした。

氏綱が取ったその対処とは、自家(伊勢家)の『北条』への改姓という手段。
『北条』といえば…かつて鎌倉幕府の執権を務めた、関東地方では由緒ある姓の一つです。

今も昔も、余所者には冷たい対応をとってしまいがちな日本人。
守旧勢力の駆逐という大義名分を掲げつつも、当時の伊勢家は関東の土豪達から見れば所詮は余所者であり、味方に付く者も限られていました。

そんな不利な状況を打破し、少しでも多くの味方を作りたいと考えた氏綱が『北条』への改姓を果たしたのが1523年のこと。
北条への改姓以降、氏綱は多くの在地衆を味方に引き込み、関東制覇へと着手していったのです。



ターニングポイント:第一次国府台合戦

そんな二代目氏綱の最大の合戦は、『第一次国府台合戦(1538年)』。
激突した相手は、小弓公方と称される当時最大のライバルの足利義明でした。

武勇に優れる小弓公方・足利義明を『第一次国府台合戦』で撃破した氏綱は、この勝利によって房総半島の大半を手中に収めることとなります。

これにより、名実共に関東武家社会のトップに君臨することとなった北条家。
その後、北条家は三代目・氏康や四代目・氏政へと引き継がれ、最大版図を築いていきますが、この氏綱の功績が無ければ関東守旧勢力の駆逐という悲願は大幅に遅れていたことでしょう。

私が二代目・氏綱を北条家の影のMVPに推す理由が、ここにあります。

久しぶりの読了本報告、今回は故・火坂雅志さんと伊東潤さんの共著『北条五代』をお届けしました。

このブログ記事では二代目・氏綱にスポットを当てましたが、後北条氏は初代の早雲庵宗瑞や三代目・氏康、強い結束を誇った四代目・氏政とその兄弟など、多くの人材を輩出しています。
興味を持った方は、是非ご一読下さい。



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