本能寺の変431年目の真実(明智 憲三郎)

浅見家の本棚

『本能寺の変 431年目の真実』 /明智 憲三郎

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は、明智光秀
明智光秀といえば主君・織田信長を討った『本能寺の変』があまりにも有名ですが、近年の研究により、これまでの定説が覆されようとしています。

本書の著者は明智憲三郎さんで、その苗字のとおり明智光秀の末裔です。
残された数々の資料から『本能寺の変』の裏に隠された真実を解き明かす…という内容になっています。

今回は『本能寺の変 431年目の真実』を要約していきたいと思います。
日本の歴史を変えたと言っても過言ではない『本能寺の変』。
あの出来事の裏には、一体何があったのでしょうか?

第一部 作り上げられた定説

誰の手で定説は作られたか

秀吉によって発行された『惟任退治記』の内容が定説化。

○『時は今あめが下しる五月かな』は改竄された可能性有り。

○江戸期以降、『太閤記』等の軍記物によって更に定説化が進んだ。

定説とは異なる光秀の経歴

光秀は元々細川家の中間、そこから足利家の足軽頭となった。

信長
の家臣となったのは、比叡山焼討の直後。

作られた信長との不仲説

○『信長公記』には、信長光秀の不仲の記述は全く無い。

○実は光秀も革新的・合理的な人物だった可能性が高い。



第二部 謀反を決意した真の動機

土岐氏再興の悲願

○【愛宕百韻】の正しくは…『時は下なる五月かな』。
 この真意は、一度は没落した土岐一族の安寧を願ったもの。

盟友・長曾我部家の危機

○謀反の動機は、盟友・長曾我部家討伐の阻止。

光秀の家臣・斎藤利三の妹が長曾我部元親の正室。

 つまり、信長による四国攻略は土岐一族の崩壊を意味していた。

信長が着手した大改革

信長は織田家直轄の再編を計画。
 3人の息子に要地を与え、有力武将は処罰するか遠国に派遣。

信長の天下統一が成れば、その先に待っていたのは『唐入り』。

 そうなればいずれ土岐一族は滅亡する恐れがあると考え、謀反を決意した。



第三部 解明された謀反の全貌

本能寺の変はこう仕組まれた

信長は、本能寺で徳川家康を討ち取る計画を立てていた。
 しかし、光秀がそれを『信長討ち』にすり替えた。

織田信長の企て

○武田家を滅ぼした甲州遠征の最大の目的は、徳川領の視察。

○帰国後、信長家康を安土に招待。

 自分の思い描く『本能寺の変』にはるはずだった。

明智光秀の企て

○謀反に際し、盟約相手を武田勝頼から徳川家康に変更。

○事前に光秀家康と事前に談合を実施。

 その場には、恐らく細川藤孝も同席していた可能性が高い。

徳川家康の企て

○『伊賀越えは』、実は余裕を持って行われた。

○帰国した家康は手勢を2つに分け、一方には甲斐・信濃を攻略させた。


家康の計算が狂ったのは、秀吉の動き。

 この時の盟約の延長が、春日局(斎藤利三の娘)家光の乳母採用。

羽柴秀吉の企て

秀吉細川藤孝から謀反の日の情報を仕入れていた。
 『中国大返し』は事前に撤収準備が進められていたからこそ、可能だった。

秀吉は、織田政権の簒奪者。

 『惟任退治記』を発表して世論をコントロールし、天下を自分の物にした。



第四部 叶わなかった二つの祈願

祈願『時は今あめが下なる五月かな』

光秀の祈願は叶わなかったが、家康の家臣・菅沼氏(土岐氏がルーツ)の立身
 により、一族再興は実現された。

光秀の家臣・斎藤利三の娘・春日局となり、家光の乳母となった。

 家光の名も、光秀から取ったという説は面白い。

祈願『国々は猶のどかなるとき』

秀吉の天下統一後も、日本がのどかになることはなかった。
 2度の『唐入り』が行われ、5万人もの日本兵が命を失った。

○2度の『唐入り』に際し、千利休豊臣秀次が切腹。

 原因は定かではないが、秀吉は自分に対する謀反を疑い処罰。
 秀吉の謀反トラウマは、豊臣政権と彼の一族の弱体化を招いた。



エピローグ

光秀謀反と、利休・秀次の切腹に共通するのは『唐入り』。
 家康は『唐入り』という概念を捨てて、260年も続く平和な国を作り上げた。○明治以降の日本は違う道を辿った。
 その結果、昭和になってあのような過ちをしてしまった。

今回は、『本能寺の変 431年目の真実』を要約しました。

明智氏の『先祖の汚名を回復したい』という思いが所々に滲み出ている感が無くはなかったのですが、色々と振り返ってみるとこの本に書かれている内容は辻褄が合っているようにも思えます。

本書を片手に放送が再開された後の『麒麟がくる』を見ていくと、また違った『本能寺の変』の見方が生まれるのかもしれません。



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